夕食後に寮の自室にある机に向かい、
苛々とロザリアは書いていた部分へ訂正の斜線を入れた。
万年筆のペン先が紙へ引っ掛かり、それが苛立ちに拍車を掛ける。
このペンは愛用の品ではない。レポートを書く時には、
彼女の手に馴染んだお気に入りの万年筆が一番だ。
紙の上を滑るように文字を記してゆけるそれは、
何年か前の誕生日に父から貰ったものだった。
それを忘れて来た場所を思い起こすと、苛立ちの原因に考えが戻ってしまう。
ロザリアは一枚レポート用紙を破り、丸めて屑入れへ放り込んだ。
その時彼女の自室のドアがノックされ、
ロザリアは返事を返しながら来訪者へ扉を開けた。
「ロザリア! あのね、聞いて欲しいんだけど、今日ねわたし……」
金の髪を揺らして彼女を見上げたアンジェリークから、
ロザリアは目を逸らして言葉を遮る。
「アンジェリーク、
申し訳ないけど明日までに書き上げたいレポートがありますの。
急を要する事ですかしら?」
えー。不服そうに尖った唇にちらっと目をやり、
ロザリアは苦笑して腰に手を当てた。
「そんな面白い顔をしないで。
明日……いえ、明後日なら時間が取れますわよ。それでいかが?」
不承不承頷いた後金の髪の女王候補はにっこり笑う。
「うん、分かった。明後日またロザリアの部屋へ来るから、その時に聞いてね」
はいはい。立ち直りの早い少女に呆れてロザリアが肩を竦めると、
アンジェリークは瞳を輝かせて付け加えた。
「ねえ、オリヴィエ様って素敵だね。男らしいなって今日思っちゃった」
「そんな事……」
その先を、ロザリアは顎を上げて尊大な態度で違う言葉を探す。
「そんな事がわたくしに聞いて欲しい事なんですの?」
あははと笑ってアンジェリークは素直に思った通りの言葉で返す。
「そんなの一番ロザリアが知ってるよね。違うよ、別のこと。
それじゃレポートがんばってね!」
言いたい事だけ言って自室へ足を向けるアンジェリークの背中を見送り、
ロザリアは小さく溜め息を吐いた。
そして机に戻るとレポートの続きへと向かったのだが。
その夜アンジェリークへ時間を割かなかった事を、苦い後悔と共に思い返すなど、
この時のロザリアには判ろう筈もなかった。
「アンジェリークがいない、って。どこにですの? 聖殿に?」
きょとんとロザリアが見返すのへ、
鋼と緑の守護聖は顔を見合わせて苦い顔をした後に口を開いた。
「飛空都市に、だよ。今ディア様とジュリアス様が話しているのを聞いちゃったんだ」
「こっから、だけじゃねえ。聖地にもいないらしいぜ。どうやらそれも、
昨日の夜から」
ロザリアはやっと纏め終えたレポートを、
王立研究院へ提出したばかりだった。
もちろん昨夜も今朝も自由になる時間は自室へ篭っていたし、
どちらもアンジェリークとは顔を合わせていなかった。
「おめえよ、なんでおめえが気付かねえんだよ。寮で隣の部屋なんだろうがよ」
ゼフェルの追及を受けてロザリアは眉を寄せて後ろへ下がる。
するとマルセルがゼフェルと彼女の間へ割って入った。
「そんなの無理だよ。僕だってゼフェルが聖殿の執務室抜け出したって、
いつも全然気付かないもの」
ああ、まあそっかもな。ゼフェルはひとつ息をつく。
「あいつが自分でこっそり抜け出したんなら、そんなの分かる訳ねえか」
彼女へ向けられた言葉ではなかったが、
そんな夜を何度も経験しているロザリアの胸は大きく鳴った。
「なぜアンジェリークがそんな。女王試験の最中に勝手にこちらを離れるなど」
動揺した声にマルセルはロザリアの手を握って息を潜める。
「これからちょっと騒ぎになるかもしれない。だけどロザリア、しっかりしてね」
不安を嗅ぎ取りロザリアは眉を顰める。ちら、とマルセルが横のもう一人へ視線を向け、
続きを促した。嫌そうな顔をしたゼフェルだったが、
石畳をつま先で蹴りながら彼女へ告げる。
「あいつをこっから連れ出したのはリュミエールだ」
ロザリアは息をのみ、マルセルとゼフェルを交互に見つめ言葉もなかった。
「一体どういうつもりなのだリュミエールは」
肩に力を入れて問うジュリアスの声に誰の返答もなかった。
アンジェリークを連れたリュミエールは、公務だと偽り聖地から首都へ渡ったという。
誰の強制もなく彼ら二人自らが聖地を出た事は、
王立研究院の担当者の弁からも明らかだ。
聖殿の広間には、リュミエールを除く守護聖八人と、ディアとロザリアの姿があった。
皆が囲む真ん中には、水晶球を前に火龍族の占い師サラが座る。
手を水晶球へかざしたサラの口からは呟きが切れ切れに漏れた。
「水面が、ひどく荒れ……。……それはとても……熱い。溢れたもの……もう、
元へは……戻れず」
緊張がその場へ流れ、
それに耐えかねたランディが乾いた笑い声を上げて疑問を口にした。
「それって、リュミエール様が自分で戻りたくないって思ってるって事ですか?」
「なにっ! それはまことか」
声を荒げたジュリアスを宥めるようにルヴァの声が掛かる。
「あ〜落ち着いてくださいジュリアス。
まだ何もリュミエールからは聞いていないのですから〜。
ランディも憶測を簡単に口にしないようにしなくてはなりませんね〜」
ロザリアがオリヴィエの方を窺い見ると、彼は輪を外れて壁に凭れた。
そこへ炎の守護聖が近付きいくつか言葉を交わすのをロザリアは目の端に捉えた。
「あまり大掛かりな探索はできかねます。
今回の事は関わる人物が少ないほうがよろしいと思いますわ」
困惑を表しながらも言ったディアの言葉に、何人かが頷く。
そしてディアはロザリアを呼び寄せると彼女の手を取った。
「けれどもしこの件が外部へと漏れて問題になったとしたら、ロザリア、
女王試験はあなたの手にのみ委ねられるかもしれませんわ。
だからあなたは気をしっかりと持って、育成へこの事が影響の出ないように」
ロザリアは息を呑んで女王補佐官の言葉を聞いた。
完璧なる女王候補としての返答など思い至らず、迷いをのせた瞳でただディアを見返す。
なんという事だろう。アンジェリークにもう天使たる資格がないのだとしたら、
自分とて同様なのだが。けれどまさかそれをこの場で言う訳にも行かず、
だがディアの言葉に頷く事もできない。
ロザリアの様子がおかしくとも、
動揺の上の事としてジュリアスすら咎め立てはしなかった。広間に重い沈黙が落ちたが、
背の高い影がゆっくりと動いて出口へと向かう。
「放っておけ」
そう残して広間を後にしようとした闇の守護聖へ、ジュリアスの叱責が飛ぶ。
「そなたはまたそのように無責任な発言を!
リュミエールに一番近しい者はそなたではなかったか? それを……」
「ああ〜、騒ぎになると戻って来にくくなる、とクラヴィスは言っているのですよ〜。
彼の言う事にも一理あると思いますよ〜」
守護聖たちが交わす会話から注意を逸らし、
ロザリアは広間の磨かれた床へ視線を落とした。
なぜあの子はわたくしに何の相談もしてくれなかったの。
思わず心へ上った考えをロザリアはすぐに否定した。アンジェリークはその前の夜、
確かに自分へ相談しようとしたのだ。きっとそれはリュミエールの事に違いなかった。
なのにそれを拒んだのはロザリア自身だ。
何故あの時ちゃんと彼女の話を聞かなかったのか、後悔が胸を塞ぐ。
レポートに時間を取られていたのはもちろんだが、
本当の理由が他にあった事をロザリアは自分に認めたくはなかった。
俯いたままロザリアの意識は広間の壁に凭れる人物へと向かう。
オリヴィエは顔を上げ、ディアへ近付き彼女の肩を叩いて宥める。
「そう大掛かりじゃなく、
サラちゃんがイメージした場所いくつかへ迎えをやったらいいよ。でも私は、
じきに戻って来ると思うケドね」
オリヴィエの言葉にジュリアスが、ほう、何故だ?
と彼を振り向く。オリヴィエは黒い羽根のショールを弄びながら肩を竦めた。
「私なら多分そうする。事を荒立てて全て失いたいワケじゃなく、
本気なのを示したいだけだったらね」
守護聖の何人かがちらっとロザリアに視線を向け、彼女は唇を噛んでそれを避ける。
複雑な思いにロザリアは眉を寄せその場に立ち尽くした。
オリヴィエの言葉通り、
ほどなくして水の守護聖と女王候補の片割れが聖地へ戻ったと連絡が入った。
今回の事に関して知る者へは戒厳令が引かれ、水の守護聖は聖地へ足止めになった。
そしてアンジェリークもまた、女王候補寮での謹慎を申し渡された。
「ロザリア!」
女王候補寮へ馬車が横付けされると、そこから金の髪の少女が飛び出し、
待っていたロザリアへ飛び付くように抱き付いた。
「アンジェリーク。心配しましたわよ。あなたが無事に戻って来て、嬉しいわ」
責める言葉を覚悟していたらしいアンジェリークは、それを聞いて泣きじゃくった。
ロザリアは小さい子供のように泣く少女の背をぽんぽんと叩き、
彼女が落ち着くのを待った。
「リュミエール様に好きって言われて、
とても嬉しかった。でもどうしたらいいか分からなくて不安で」
けれど一度堰を切ってしまった情熱は止まらず、リュミエールは答えを欲しがった。
その焦りはアンジェリークを絡め取り、正常な判断を狂わせた。
「わたしが言ったの。少しだけ女王候補じゃない自分に戻りたいって。それで」
それが愚かだと、ロザリアに言う資格はない。彼女の方がずっとずるくて、
それだけでなくそれを他の人物へ肩代わりさせようとしたのだから。
「あなたの不安は当然ですわ。そしてそれはきっと、
今までの女王候補たちにも女王陛下にも、同じように訪れた不安かもしれませんわね」
ロザリアの言葉にアンジェリークは目を丸くし、緑の瞳を瞬く。
「ロザリアがそんなふうに言ってくれるなんて思わなかった。
もしそれをあの日言ってもらっていたら……」
視線を落としたアンジェリークと同様の後悔がロザリアの胸へも上る。
けれど今となっては言っても詮ない、もしも、だ。
「リュミエール様が好きなの。わたし、女王にはなれない。女王試験を降りる」
顔を上げたアンジェリークの緑の瞳に強い意志を感じ、
ロザリアは息を止めてそれを見た。
「あんた……! どう……したのさ。今この時期はヤバいだろ。
アンジェリークとリュミエールのコトでみんなカリカリしてんのに」
玄関に回らず、
夢の守護聖の寝室へ繋がるテラスへ柵を乗り越えてロザリアは入り込んだ。
テラスへ面した大きなガラス窓を叩くと、
すぐに彼女の影に気付いてオリヴィエがそこを開けた。
もちろん今夜は何の約束も交わしてはいなかった。そればかりか、
レポートを仕上げたかったせいもあり、
もうここ十日ばかりずっと夜を共に過ごしてはいなかった。
「わたくし、言えませんでしたの。わたくし、あの子が言う言葉に対して何も」
混乱して彼の手に縋るロザリアに、オリヴィエが腕を回してトントンと背中を叩く。
ここまでずっと駆けて来て息が整わず、ロザリアは咳き込んだ。
「落ち着いて。ゆっくり順を追って話してごらん」
あ……。荒い息がなかなか治まらず、ロザリアの喉が掠れたのを見て、
オリヴィエが横へ置いていたグラスを取って中身を口に含む。
そのままオリヴィエの唇を通してそれはロザリアへと注がれた。
ひやりと冷たい液体が、カッと熱く燃えて喉へ落ちる。唇の端から漏れた一筋に、
オリヴィエの舌がロザリアの顎から首筋へと這う。
それに反応してびくりとロザリアの体が震えると、
彼の手は彼女の柔らかい部分へ辿り着いてゆっくり愛撫した。
「お願い」
彼女がオリヴィエの肩へ両腕を回して短い言葉で懇願すると、
何も問わずに彼はロザリアを抱き上げた。
ベッドまでの距離は、とても短かった。
「わたくしにこそ、羽根はもう、ありません、のに」
快楽に身を委ねながら、前後の繋がりなくロザリアの唇から漏れる言葉。
それをオリヴィエは繋ぎ合わせて何があったか理解してくれたようだった。
「そんなコト、ないさ。あんたには見えないの?
今だってあんたの背には白い翼が輝いてるってのに」
横になったオリヴィエの上で動きながらロザリアは首を振る。
そんな筈はない。敗北があれほど怖くて逃げる事しか考えていなかった自分。
そして今はこんなにも快楽に溺れる自分が、許される筈はないのに。暗い夜へ、
こんなにも簡単に流された自分が。
「約束したのに、あんまり綺麗で眩しくて、目を開けていられないくらいだよ」
ロザリアの白い腰へ添えられた手が、彼女の動きに合わせて繋がりへ刺激を加える。
それに声を上げロザリアは再び首を振った。
「あの、子が、相応しいって、知ってる、のに」わたくしは言えなかった。
届かないと思ったものがこの手に下りて来る、
その目眩がするほどの誘惑を断ち切る勇気がない。
腰を下ろす動きに合わせてオリヴィエが下から突き上げ、
ロザリアはいきなり上り詰めた。
急激に訪れた快感に自分がオリヴィエを締め上げたのを感じたが、
彼の動きは止まらずロザリアは激しく喘いだ。
「オリヴィエ様……。叱っ……て」
あなたなら。わたくしを正してくださるでしょう?
どうか意気地のないわたくしを叱咤して。
宇宙の未来のために誰が女王へなるのがベストかは、あなたもご存知ですもの。
力の入らなくなった体を前に倒し、ロザリアはオリヴィエの上に重ねた。
白い胸に体を預けて荒い息をつくと、彼女の髪を優しく撫でる手に気が付く。
「あんたが欲しかったものだものね。おめでとう、ロザリア。
あんたは今までの女王陛下の誰よりも美しい女王陛下になるよ。
どんなに綺麗だろうね」
オリヴィエの言葉に衝撃を受けてロザリアは体を固くした。彼女が目を上げると、
柔らかな煙ったブルーの瞳がそれを受け止める。そしてオリヴィエは彼女ごと身を起こすと、
ロザリアを抱えたまま座って唇へくちづけた。
「もうこうしては会えなくなるだろうけど、今まで通りあんたを見てるよ。ずっとね」
角度を変えながら深くなっていくくちづけを受けながら、
ロザリアは自分の動揺を表情に出さないように努めたが、
それは成功したとは言えなかった。
そしてロザリアは、
自分がなぜオリヴィエの言葉にショックを受けたのか気付いて眉を寄せる。
「ど……して」言ってくださらないの?
「女王試験はこうして、どう転ぶか分からない。だからあんたには諦めて欲しくなかった。
ほら、あんたが諦めなかったから、こうしてチャンスが巡って来たんだ。ね、
私の祝福がいらないの?」
ロザリアは首を振ったが、
自分がまた判断をオリヴィエに任せようと揺れていた事も自覚した。
そしてそれを恥ずかしく思う。けれどそれだけではない。
女王として相応しいのが誰か、それを彼は明言した事はなかったけれど、
自分ではないと感じていた。なのに自分へは諦めるなと言っても、
もう一方の彼女には彼はなぜそれを許すのだろう。
そして、アンジェリークを求めた水の守護聖のように溢れて止まらないもの、
それが彼にはないのだと、そんな事は知りたくはなかった。
こうしてどんなにそばにいようとも、全てが儚い幻だったなどと。
暑い夏の日。石畳の上に広がるように見えるのに、近付くと逃げていく水。
熱い息を吐いて見たブルーは、そこに最初からありはしなかったのか。
金の髪が、瞳のブルーが、ロザリアの目に霞んで映る。
けれどそれを知られたくなくてロザリアはオリヴィエの首に腕を回して肩へ顔を伏せた。
「最後になるのなら。もっと、して」
声が震えるのを隠すため、吐息でロザリアは囁いた。オリヴィエの耳へ口を寄せ、
耳朶を唇に挟む。
「ちょっと……それヤバイって」
オリヴィエは余裕をなくした声を上げると、二人の体をベッドへ倒した。それでも、
彼が動き出すと途端に乱されてしまうのはロザリアのほうだ。
快楽を知った体が求めるまま、迷いも落胆も遠くへ押し遣り、
ただ高い場所を目指す。それはいつものようにもう言葉も思考もなく、
後悔も先延ばしにしたものだけれど。ただロザリアはそれに溺れた。
彼女はよく行為の最後に意識を手放した。
オリヴィエがロザリアを浴室まで運んでくれる事もあったが、
時には暖かく濡らしたタオルで体を清めてくれる事もあった。
深く眠りへ入っている時にはそれに気付かない場合もあったかもしれない。
その夜は、けれど触れる暖かさにロザリアの意識は戻って来た。
浴室まで自分で行けると、言おうと思えば言えた。だが、
こんな夜はもう最後になるかもしれないという考えが頭を過ぎると、
目を覚ますのがロザリアは嫌だった。
自分が女王の座に着くのは正しくはないのではという迷いより、
伸ばした手を取ってもらえなかった衝撃のほうが大きかった。
それはロザリアが自分の気持ちに気付く事でもあった。
覚醒したらそれら全てに向き合わねばならないのだから。
清められた体にオリヴィエは薄い上掛けを掛けた。
慣れた仕草で彼は屈んでロザリアの額に落ちていた髪を払い、そこへ唇を落とす。
そして、初めて聞く柔らかな声で小さく呟いた。
「愛してるよ」
突然ぱっちりと開いた紫紺の瞳に、オリヴィエが表情を揺らがせて体を後ろへ引いた。
「あんた……起きて……」
オリヴィエの仕草も声も、慣れたものだった。ロザリアには分かってしまった。
彼女がこうして意識をなくしている間、繰り返された儀式だったと。
いつも彼はこうしてロザリアが聞いていない時にだけ、告げてくれていたと。
オリヴィエの姿が水の向こうにあってよく見えない。
ロザリアが瞬きをするとそれは頬へと落ちたが、すぐにまた霞んでしまう。
ロザリアは体を起こしてオリヴィエへ両手を伸ばした。
「わたくし、も……!」
伝えたい言葉があるのに喉が詰まって声が出ないのが、ロザリアにはもどかしかった。
するとサテンのローブの袖が彼女の体に回り、
気付くと彼女はオリヴィエにきつく抱き締められていた。
「ごめん。言うつもりじゃなかったのに。あんたが選ぶ、その邪魔になんか、
絶対なりたくないんだ。そのくせあんたの手をなかなか離せなくて、
こうして快楽であんたを縛って。ひどいヤツだよね。……なのにあんたも、
同じ言葉をくれるって言うのかい? 」
声がうまく出ないその代わりに、ロザリアも彼に回した腕に力を込めて頷いた。
そうして鼓動が重なり安心を促していくと、
ロザリアは彼に訴えたい言葉がたくさんある事に気付く。
けれどまだ口を開いた途端に声を上げて泣きそうで躊躇していると、
オリヴィエはまるでそれを読み取ったかのように話し出す。困ったように息をついて。
「どうして言ってくれなかった、なんてまさか言わないでよね。
私だって不安だったんだって分かってもらえないのかな?
あんたの縋った相手は私じゃなくて誰だってよかったんだろうって、
思っても当然じゃないか」
実はそこのところはロザリア自身にもよく分からない。
だから深く追求されると困るのだが、
それでも今はもう彼でなくてはだめなのだと強く感じる。
「あんたが好きだよ、ロザリア。もうずっと体が熱くて、
冷たい紅茶しか飲めなくなってる、それくらい。
あんたの望みが私よりも女王の座でも構わない、それくらい」
心地いい言葉。欲しかった言葉。いや、欲しかった以上のものをいっぺんに与えられ、
まるで夢の中にふわふわと漂っているようだ。ロザリアは力が抜け、
そのままオリヴィエへ体を預けた。
ロザリアが少し落ち着いたのを知り、
オリヴィエは彼女を抱く腕を緩めるとそっと髪を撫でる。
「あんたは、あのコのほうが相応しいって、罪悪感持ってるみたいだけどさ。
あんたのサクリアだってすごく成長した。ねぇ? 女王を育てるにはもうひとり、
女王のサクリアを持った人物が必要なんだ。私は思うよ。
女王候補は二人じゃなくちゃだめなんだって」
オリヴィエの声を聞きながら、ロザリアの心は誇らしさと満足でいっぱいになった。
アンジェリークの力を認めてからというもの、ずっと胸を塞いでいた空しい思い。
それを掃ってくれるかのような力を持つ言葉だ。
テラスへ続く窓から、鳥の声が聞こえた。
カーテン越しの空が少しだけ明るくなっているのが窺える。
もう暗い夜ではない。そこへ逃げる必要ももうない。
オリヴィエの胸に頬を摺り寄せ、ロザリアは大きく呼吸した。
彼の香りが彼女を包んでいる事に涙がまた出そうだ。
そしてロザリアは顔を上げ、オリヴィエへ自分からくちづけた。
「オリヴィエ様。あなたが好き」
微笑むロザリアをオリヴィエが眩しそうに見返す。
そしてロザリアは背を伸ばして顎を上げた。
「わたくしは自分で決めましたわ。
それがあなたも望む事なのかどうか分かりませんけれど、見ていてくださる?」
オリヴィエは微笑んで頷く。
「もちろんだよ」
女王候補寮にある花壇へロザリアは水遣りした。
緑の守護聖からもらった花の種は芽を出し、双葉から本芽が空を目指している。
いつもよりもっと朝の空気が澄んでいると思えるのは、
自分の心持ちが違うからだろうと強く感じる。
「ロザリア。早いね」
眠そうな声が上からロザリアへ下りて来て、
腫れぼったい目をしたアンジェリークが窓から顔を出しているのに気が付いた。
ロザリアはおはよう、と彼女へ返し、胸を張ってアンジェリークを見上げる。
「アンジェリーク。あなたが女王になるのよ」
アンジェリークの目が驚きに見開かれた。かつて自分が今と同じく胸を張り、
彼女へ間逆の宣言をした事を思い出し、ロザリアはくすっと笑う。
自分が正しいものを選ぶ事ができるのだと、胸を占めるのは誇らしい思いだ。
ロザリアは顎を上げて続きを継いだ。
「あなたとあなたの思うかたは、わたくしが何があっても守りますわ。
あなたもわたくしも、恋を諦める必要なんてない。そしてわたくしとあなたなら、
そんな新しい宇宙を作っていく事ができる筈ですもの。
そう思いませんこと?」
256代目の女王陛下の即位式には、
誰よりも誇らしげに彼らの新女王陛下を見る新女王補佐官の姿があった。
女王陛下の輝く視線の先も、傍らの女王補佐官へと向けられていた。
それを見守る守護聖たちの瞳の中には、二対の特別なものがあったけれど、
それは彼女たち二人への足枷にはもうなりえない。
未来は誰の目の前へも輝かしく広がっている。
end